情報社会下で「思想」を考える(1)
- 2016/11/05
- 13:59
情報社会下で「思想」を考える(1)
11月13日のトークイベントに寄せて、
月村先生が書いてくれた原稿を紹介させていただきます。
当日ご参加される方、残念ながら来られない方も、
ぜひ読んでみて欲しい、示唆に富んだ内容です。
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日本語には、「思う」と「考える」という二種の言葉があります。二つの違いは日本人ならば分かるでしょう。でも、ヨーロッパ系言語ではそうではありません。英語では「think」、仏語では「penser」、独語では「denken」などで、全て「思う」と「考える」が一語にまとまっているので、その区別は文脈で判断するしかありません。自分でそういう文章を作って「考える」か「思う」かの、どちらかの意味で使っていることをはっきりさせるしかないのです。
でも、日本語は「思う」と「考える」は別です。そこで、情報社会とは何か、と「考え」てみると、情報社会とは各人が「思い」を自由に発信したり受信したりする社会だということになるでしょう。「考え」の発信、受信がとても難しい社会が情報社会です。皆が考えなくなったのです。
このことをはっきり示しているのがアメリカの大統領選挙で、ヒラリーもトランプも「情報」のレベルでしか選挙戦をやっていないのです。世界もそのことに捲きこまれてこれが「情報」選挙だということをよく「考え」られないのです。具体的に言いましょう。
トランプはアメリカは一国だけに戻ればいいんだ、メキシコとの間には壁を作ろう、海外でのアメリカ産業の進出はやめにしてアメリカ国内だけに工場を建てるようにすればいい、政府も金のかからない小さいのでいいんだ、税金も安くなると主張します。これは何なのでしょうか。
トランプは不動産業者です。土地を建築物を売って商売してきた人です。買って売って、また売って買って、とその利益だけの人生をガムシャラに送った人なのでしょう。すると、不動産は国内に限られるし、外国への援助などは不動産売買には邪魔なだけだし海外へのアメリカ産業進出などは要らない、政府も小さくていい、ということになるのは当然です。トランプのすべては不動産売買を一生懸命にやってきた商業資本家の意見です。また、連邦政府税を15年間合法的に払わないようにしたというのもすごいことです。不動産の売買は各州の法律で別々に規制されているからでしょう。連邦政府には世話になってない、という思いがあるはずです。
対するに、ヒラリーの意見は産業資本家の意見です。大量生産、大量消費、働く人と消費する人をどんどん増やしてお金を国中に回転するようにする。しかし、このお金の回転から必ずはじき出される人がいる、これは政府が責任をもって最低限の生活を保障してやらねばならない、これは民主党の意見です。はじき出された人を政府予算で責任を持つのだから政府が大きくなるのは当然だとなります。
でも、ヒラリーはアメリカ男性に人気がありません。あまりにも公私混同がひどいんですね。国務長官のときのアメリカ政府としての公式メールを自分の私的メールで受けちゃったのが3万5千回もあったというのだからすごい。国務省は外務省と同じですから外国からの秘密情報がどしどし入るのに、これを私的メールで受けちゃうんです。ヒラリーだって止めようと思ったでしょうけれど、ついつい自分のメールで受けちゃう。そういうやめられない公私混同が演説の言葉の端々に現れるんです。明快に相手を攻撃すればするほど、アメリカ男性は嫌になっちゃう。これは想像ですけど、アメリカ男性はヒラリーの攻撃口調に自分の奥さんとケンカしたときの奥さんの口調を無意識に感じているはずなんです。公の政治演説なのに単なる女性の憤懣みたいなものを消せないで、私的に響かせちゃうということです。
これは、何故かというと、私の考えではヒラリーのお母さんが悪かった、となります。ヒラリーのお父さんとお母さんが夫婦げんかをするとき、お母さんの方はお父さんへの私的な感情で反撥してるんですけど、女性の地位をどう考えてんだとか男性優位の気持ち丸出しだとか――そういう喧嘩をしたんだと思います。ヒラリーはそれをモロに受けて育ったと思います。
さて、こんな話を何故、したかと言うと、トランプが商業資本家だとかヒラリーのお母さんが悪かったとかを考えるのは情報社会ではタブーだからです。商業資本家はたくさんいる、トランプは一人だ、ヒラリーは政治家だ、お母さんのことを今更持ち出して何になる……こういう事を前提にして情報社会は成立しているのです。言いかえれば、全ては個人で情報を発信し、個人で受信する。個人の手に負えないことは言い出すな、ということです。それがメールが社会的な関係手段として完結した意味です。今はそういうメール関係しか無くなったのではないでしょうか。あるいは、ただただ自分のことだけを言うメール関係しか無くなって皆がアップアップしているのではないでしょうか。
「考える」ということは一つの事柄を色々な次元で考えてみるということです。こんな商売をやっていたらこんな風になる、こんなお母さんだったらこんな風になる…とか色々な次元が自由に開放されていることで、そこでこそ「考える」事が可能になるのです。でも、情報社会では、それがありません。発信、受信はメールに向かったときの個人の「思い」だけになっちゃうのではないでしょうか。
ここで、話をもう一つ発展させます。人間が「考える」ことには、関係概念と実体概念の二つがあります。実体概念は存在概念と言い換えてもよいのです。あるいは、この二つは関係性と実体性(あるいは存在性)と言ってもよい。
人間は独りで生きているわけではありません。色々な他人がいて、その人々との色々な関係を生きています。むろん、関係は人間だけにとどまりません。もの、組織、環境など色々な関係が生じます。でも、そんなに関係が沢山生じるのも自分が居るからです。自分が自分で独りで立っていて、その自分がはっきりしていればあらゆる関係が生じてもその関係の多様性に堪えられるのです。あるいは、多様な関係を自由に生きられるのです。だから、この独りで立つ自分こそが実体であり存在性なのです。
この実体性、存在性は普通はアイデンティティと呼ばれます。自己同一性です。自分は自分だ、と言い切ってこそ自分が実体となり、また自分がそのように自分として存在していることになります。今では、外国旅行の際のビザはアイデンティフィケーション・カードでしょう。アイデンティティの証明カードです。
さて、この「自分は自分だ」という実体性、存在性がしっかりとしていれば、自分がどんな次元にあっても揺らがず、そのまま居られるはずなのです。しかし、現在は今も言ったように、メールによる情報社会です。メール関係しか生きられないから、自分の実体、すなわち、心と身体で日々生きて、存在している自分などというものは隠しておくしかないのです。
でも、題に掲げましたように、「思想」を「考える」とは、この自分を実体として「考える」ことから始まるのです。存在して生きている自分の現在、過去、未来はどうなるのか――それをはっきり感じていないと、「思想」というものが始まりません。即ち、「思想」というものは、この世界、つまり人類の現在、過去、未来を「考える」ものだからです。それがまったく無くなってしまったのが、情報社会下の現在です。そのことは、選挙が情報合戦になっていることにはっきりと現れているでしょう。
今、「思想」の問題として考えねばならないのは「国家」と「宗教」です。それから、核=原子力の問題です。核=原子力をどう制御するか、は「国家」と「宗教」を超えている問題です。このことをはっきりさせて、「国家」と「宗教」を、どう考えればいいか――「国家」と「宗教」を「関係概念」と「実体概念」=「存在概念」と二つの側面から考えてみねばならないのは、このときです。
ぜひこちらのイベントも足をお運びください!!
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●11月13日(日)14時45分~17時00分
~まちばの哲学トークライブ~
「混迷の現代社会を考え生き抜く知恵」月村敏行氏を迎えて
【詳細はコチラ】→http://machibacollege.blog.fc2.com/blog-entry-14.html
11月13日のトークイベントに寄せて、
月村先生が書いてくれた原稿を紹介させていただきます。
当日ご参加される方、残念ながら来られない方も、
ぜひ読んでみて欲しい、示唆に富んだ内容です。
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日本語には、「思う」と「考える」という二種の言葉があります。二つの違いは日本人ならば分かるでしょう。でも、ヨーロッパ系言語ではそうではありません。英語では「think」、仏語では「penser」、独語では「denken」などで、全て「思う」と「考える」が一語にまとまっているので、その区別は文脈で判断するしかありません。自分でそういう文章を作って「考える」か「思う」かの、どちらかの意味で使っていることをはっきりさせるしかないのです。
でも、日本語は「思う」と「考える」は別です。そこで、情報社会とは何か、と「考え」てみると、情報社会とは各人が「思い」を自由に発信したり受信したりする社会だということになるでしょう。「考え」の発信、受信がとても難しい社会が情報社会です。皆が考えなくなったのです。
このことをはっきり示しているのがアメリカの大統領選挙で、ヒラリーもトランプも「情報」のレベルでしか選挙戦をやっていないのです。世界もそのことに捲きこまれてこれが「情報」選挙だということをよく「考え」られないのです。具体的に言いましょう。
トランプはアメリカは一国だけに戻ればいいんだ、メキシコとの間には壁を作ろう、海外でのアメリカ産業の進出はやめにしてアメリカ国内だけに工場を建てるようにすればいい、政府も金のかからない小さいのでいいんだ、税金も安くなると主張します。これは何なのでしょうか。
トランプは不動産業者です。土地を建築物を売って商売してきた人です。買って売って、また売って買って、とその利益だけの人生をガムシャラに送った人なのでしょう。すると、不動産は国内に限られるし、外国への援助などは不動産売買には邪魔なだけだし海外へのアメリカ産業進出などは要らない、政府も小さくていい、ということになるのは当然です。トランプのすべては不動産売買を一生懸命にやってきた商業資本家の意見です。また、連邦政府税を15年間合法的に払わないようにしたというのもすごいことです。不動産の売買は各州の法律で別々に規制されているからでしょう。連邦政府には世話になってない、という思いがあるはずです。
対するに、ヒラリーの意見は産業資本家の意見です。大量生産、大量消費、働く人と消費する人をどんどん増やしてお金を国中に回転するようにする。しかし、このお金の回転から必ずはじき出される人がいる、これは政府が責任をもって最低限の生活を保障してやらねばならない、これは民主党の意見です。はじき出された人を政府予算で責任を持つのだから政府が大きくなるのは当然だとなります。
でも、ヒラリーはアメリカ男性に人気がありません。あまりにも公私混同がひどいんですね。国務長官のときのアメリカ政府としての公式メールを自分の私的メールで受けちゃったのが3万5千回もあったというのだからすごい。国務省は外務省と同じですから外国からの秘密情報がどしどし入るのに、これを私的メールで受けちゃうんです。ヒラリーだって止めようと思ったでしょうけれど、ついつい自分のメールで受けちゃう。そういうやめられない公私混同が演説の言葉の端々に現れるんです。明快に相手を攻撃すればするほど、アメリカ男性は嫌になっちゃう。これは想像ですけど、アメリカ男性はヒラリーの攻撃口調に自分の奥さんとケンカしたときの奥さんの口調を無意識に感じているはずなんです。公の政治演説なのに単なる女性の憤懣みたいなものを消せないで、私的に響かせちゃうということです。
これは、何故かというと、私の考えではヒラリーのお母さんが悪かった、となります。ヒラリーのお父さんとお母さんが夫婦げんかをするとき、お母さんの方はお父さんへの私的な感情で反撥してるんですけど、女性の地位をどう考えてんだとか男性優位の気持ち丸出しだとか――そういう喧嘩をしたんだと思います。ヒラリーはそれをモロに受けて育ったと思います。
さて、こんな話を何故、したかと言うと、トランプが商業資本家だとかヒラリーのお母さんが悪かったとかを考えるのは情報社会ではタブーだからです。商業資本家はたくさんいる、トランプは一人だ、ヒラリーは政治家だ、お母さんのことを今更持ち出して何になる……こういう事を前提にして情報社会は成立しているのです。言いかえれば、全ては個人で情報を発信し、個人で受信する。個人の手に負えないことは言い出すな、ということです。それがメールが社会的な関係手段として完結した意味です。今はそういうメール関係しか無くなったのではないでしょうか。あるいは、ただただ自分のことだけを言うメール関係しか無くなって皆がアップアップしているのではないでしょうか。
「考える」ということは一つの事柄を色々な次元で考えてみるということです。こんな商売をやっていたらこんな風になる、こんなお母さんだったらこんな風になる…とか色々な次元が自由に開放されていることで、そこでこそ「考える」事が可能になるのです。でも、情報社会では、それがありません。発信、受信はメールに向かったときの個人の「思い」だけになっちゃうのではないでしょうか。
ここで、話をもう一つ発展させます。人間が「考える」ことには、関係概念と実体概念の二つがあります。実体概念は存在概念と言い換えてもよいのです。あるいは、この二つは関係性と実体性(あるいは存在性)と言ってもよい。
人間は独りで生きているわけではありません。色々な他人がいて、その人々との色々な関係を生きています。むろん、関係は人間だけにとどまりません。もの、組織、環境など色々な関係が生じます。でも、そんなに関係が沢山生じるのも自分が居るからです。自分が自分で独りで立っていて、その自分がはっきりしていればあらゆる関係が生じてもその関係の多様性に堪えられるのです。あるいは、多様な関係を自由に生きられるのです。だから、この独りで立つ自分こそが実体であり存在性なのです。
この実体性、存在性は普通はアイデンティティと呼ばれます。自己同一性です。自分は自分だ、と言い切ってこそ自分が実体となり、また自分がそのように自分として存在していることになります。今では、外国旅行の際のビザはアイデンティフィケーション・カードでしょう。アイデンティティの証明カードです。
さて、この「自分は自分だ」という実体性、存在性がしっかりとしていれば、自分がどんな次元にあっても揺らがず、そのまま居られるはずなのです。しかし、現在は今も言ったように、メールによる情報社会です。メール関係しか生きられないから、自分の実体、すなわち、心と身体で日々生きて、存在している自分などというものは隠しておくしかないのです。
でも、題に掲げましたように、「思想」を「考える」とは、この自分を実体として「考える」ことから始まるのです。存在して生きている自分の現在、過去、未来はどうなるのか――それをはっきり感じていないと、「思想」というものが始まりません。即ち、「思想」というものは、この世界、つまり人類の現在、過去、未来を「考える」ものだからです。それがまったく無くなってしまったのが、情報社会下の現在です。そのことは、選挙が情報合戦になっていることにはっきりと現れているでしょう。
今、「思想」の問題として考えねばならないのは「国家」と「宗教」です。それから、核=原子力の問題です。核=原子力をどう制御するか、は「国家」と「宗教」を超えている問題です。このことをはっきりさせて、「国家」と「宗教」を、どう考えればいいか――「国家」と「宗教」を「関係概念」と「実体概念」=「存在概念」と二つの側面から考えてみねばならないのは、このときです。
ぜひこちらのイベントも足をお運びください!!
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●11月13日(日)14時45分~17時00分
~まちばの哲学トークライブ~
「混迷の現代社会を考え生き抜く知恵」月村敏行氏を迎えて
【詳細はコチラ】→http://machibacollege.blog.fc2.com/blog-entry-14.html
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