情報社会下で「思想」を考える(4)
- 2016/11/10
- 17:06
※まちばカレッジのブログからの転載
月村先生のお話、まだまだ続きます。
情報社会下で「思想」を考える(4)です。
・これまでのお話はコチラ↓
情報社会下で「思想」を考える(1)
情報社会下で「思想」を考える(2)
情報社会下で「思想」を考える(3)
(4)では、現在の情報社会に達した、貨幣経済社会について、
またその根本にある「貨幣」について書かれています。
貨幣の存在本質とは、単位であること、そして、数えられること。
その貨幣の本質に人々が同化し、誰もが平等に一人、数えられる数量となり、
全体の生産に平等に寄与する社会、それが貨幣経済社会であるということです。
しかし、全体への平等な寄与というのはうまくいっていない。
貨幣社会としての格差が生じている。
さらに貨幣は国家を超えて、国際関係間にも格差を生じさせている。
そこに、情報社会として、個人が個人のコピー交換しかない関係を生きていたら、
貨幣社会から生じる世界的な影響の波をかぶってしまう。
その影響のひとつとして、個人が単位となっていく現在において、
家族制度が解体し、大家族制度から核家族、
さらには、現在は核抜きの解体家族=浮遊家族、漂流家族と言えるような現状がある。
この現状をはっきりと認識した上で、私たちは考えていかねばならない。
それぞれが、自分が自分であるというしっかした思いを生きねばならない。
それが「考える」ということ、「思想」するということ。
以下に、全文を載せていますので、
ぜひ読んでみてください。(中尾)
----------------------------------
講演を紹介するコピーに「混迷を生き抜く知恵」なんて言葉があってあわてました。この情報社会は貨幣経済社会が一つの頂点に達して出現したので、そこでは「生き抜く」なんて言葉や考え方は必要ではないのです。「生き抜く」は上から目線と言うか、権力者というか、指導者とかが掛け声として言うだけの言葉になってしまいました。電通の24歳の女子が自殺したでしょう。「過労死」みたいに言われてしまいそうですが、この人は「生き抜こう」としたんで、こういう結果になってしまったのではないでしょうか。
情報社会までに達した、この貨幣経済社会下ではっきりしたことがあります。それは貨幣を機能─関係概念だけで考えるだけでなく、実体─存在概念で分かるようになったことです。貨幣の機能─関係概念は交換、流通、蓄蔵などです。この機能─働きがあるから経済生活社会が円滑に動いていく。そして、この機能が成立するためには貨幣が円やドルなどの単位制にあること、そして数で数えられる数量制にあること──これが貨幣の存在本質──存在概念だということです。即ち、単位存在性、数量的存在性で始めて貨幣の働き──機能が円滑に発揮されていくということが分かってみると、この社会の人間も遂に同化、適応して貨幣の存在と機能に重なったということがはっきりします。
近代は個人の権利と自由を保証する民主制度で始まったんですが、それがそもそも貨幣の単位存在性に同化、適応してそうなったまでだったんです。その勢いは遂にマス・ネット社会となって単位としての個人は全てが数として存在するということになってしまった。女性も個人である、子供もそうだ、障害者もそうだ、ゲイやレズビアン即ちL・G・B・Tもそうだ──すべて権利と自由を生きているんだ、ということになりましたが、それは皆、数として社会を構成している意味なのです。誰だって数として消費に寄与する、流通に寄与する、生産はオートメーションに任せて、しかしその生産の完成に寄与する。さらにこういう生産流通社会のこの全体がうまく運んでいくように寄与する──これが政治家で、選挙で現れる議員たちです。皆、数として平等に存在するだけです。要するに、赤ん坊も子供たちも含めて数として平等に存在するだけで、全体に寄与しているという社会が成立したんです。
しかし、実際というか現実をみれば、この全体への平等な寄与というのがうまく実現してないでしょう。
貨幣には一万円札から一円アルミ貨幣まである。交換、流通の便利のためです。それは貨幣が数量として存在しているからで、貨幣経済には数量的便利性ということがどうしてもつきまといます。この便利性をどこまで自分自身のために役立たせるか、利用できるかということで必然的に大企業、小企業の区別が生じてしまいます。個人にもそういう数量的便利性をマネージメントとしてうまくこなせるかどうかで区別が生じます。貨幣社会としての格差がどうしても生じる。大企業と小企業、大富豪と貧乏人、貨幣社会をうまく乗り切れる人とそうでない人…ということで、格差、差別が生じる。しかし、そこは法律をつくって貨幣の格差が片寄らないようにするのですが、それはある程度までのことです。
数量的便利性は各国の円とかドルとかの単位存在性を為替レートで交換して、国境を超えてしまうんです。だから、貨幣自体が国際的存在性でもあるんです。そこで国家が貿易立国で富裕国家だったり貧乏国家だったりする。
これは国家の国際関係で決まります。アメリカとソ連が張り合って冷戦を続けているときは日本は貿易立国で大いに富裕になった。GDPはアメリカに次いで二位だったし個人単位では一位にになった時もあったんです。でも、ソ連がポシャって、ヨーロッパ連合が出来て、中国が台頭してさらにインドも力をつけという中で国際関係が変わっていく。ブラジル、ロシア、インド、中国が、いわゆるブリックスと呼ばれ、先進国に迫ってくる。そして、今はイスラム教国としてのアラブ諸国において、いわゆるIS(イスラミック・ステート)によるテロ戦争がいつ終わるともしれない状況に入ってしまった…。これは、いつどんなリスクが生じるか分からない時代に入ってしまったと言っても同じです。そこで銀行でも生産企業でも合併につぐ合併で企業規模を大きくしようとする。リスクでつぶれるのを防ぐためにはそれしかない、というわけです。世界がこういう風になるのは、むろん、貨幣経済社会がそれに堪えられているからです。為替レートの交換性がそのまま貨幣の国際的流通性を保証し、さらに強く活性化している…。
こういうことのなかで、電波によるグローバル化のネット情報社会が成立しているんです。個人がネットによるコピー交換だけでなく、自分が自分であるというしっかりした思いを生きねばならないのは、こういう国際関係の波をかぶってしまうからでもあるんです。そこで何が生じてるいるかと言うと、一つだけ言いましょう。
それは、家族制度もまったく変わってしまったということ。今までは核家族だった。父親と母親が核でその周りに子供がいて、父親や母親の考え方や知恵や経験というものは子供が成長して親になるときのノウ・ハウとして受け継がれたんです。しかし、今は子供は保育所で育てるんですから核家族が成立しません。今、現れているのは核抜きの解体家族です。
大家族制、核家族制とたどって今は核抜きの解体家族人間に到達してしまいました。これはどういうことかと言うと、まずヨーロッパの一人の哲学者が言ったことを参考にして考えてみます。この哲学者は核家族は社会のなかに一つの場所を占めて、まずその場所として成立すると説いたのです。だから、家族関係は社会的な人間関係とはまったく別です。結婚が核家族の始まりで、今まで見ず知らずで、考えも育ちもまったく違った男女が夫婦になります。本当に不思議なことで、結婚してからこの結びつきを考えればお互いに感動以外の何ものでもない、というのです。人生の感動はここで知ることになるとも言います。ましてや子が生まれれば、父、母が出現するわけですから親子の関係は自然そのもので、社会には属さず夫婦の関係以上に感動的なものだとも言います。成程、ここで夫で父、妻で母という一身で二つの対の関係を生きることになる家族の本質がはっきりするのです。感動はこのことと別ではありません。子にしても次の子が生まれれば子は兄や姉となります。すると、子でありながら兄(姉)だという、やはり一身で二つの対の関係を生きることになります。二番目は子でありながら弟(妹)ですね。一身でこういう二つの対の関係を生きるのが家族の本質で、父母から生まれるという自然関係としてそうなるのですから社会関係とはまったく別です。伯父、伯母、叔父、叔母、祖父、祖母まで、考えれば、一身で幾つもの対の関係を生きることになるでしょう。家族のお互いがそうなのです。これは社会のなかに社会とは別な一つの場所として家族が成立することをうまく説明したと思います。ヨーロッパの学者ですから、ギリシャ語を使ってトポス(場所)として家族と言っています。
しかし、ネット社会がグローバルに成立し、貨幣経済社会に人間が一個の数として寄与するという現代ではトポスとしての家族は不可能です。社会そのものが子の生育を引き受けて核抜きの解体家族が成立することになりました。これは浮遊家族、漂流家族と言えばよいのか──まぁ、僕にはよく分かりません。このことは皆さんの方がよく実践しているでしょう。皆さんが考えねばならないことです。
これが「生き抜く」ことなんか出来ない現在なのです。日々は消費や流通への寄与としてただ生きるしかないのです。そこでせめて自分のことを考える、日々は何とかやり過ごして「考える」。映像社会でもありますから映像だけは世界中のことを映しだす。そのなかで、自分で自分のことを考える、それから世界を考えれば、「国家」と「宗教」が「考える」べき最大の課題だとなるだろうと思います。この二つは越えなくてはならないのははっきりしているんです。とにかくこれで戦争が始まっちゃうんですから…。
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下記イベントにて、月村先生のお話を聞くことができます。
これからの社会や社会課題、生き方について関心のある方にぜひ来ていただきたいと思っています。
ぜひご参加ください!
●11月13日(日)14時45分~17時00分
~まちばの哲学トークライブ~
「混迷の現代社会を考え生き抜く知恵」月村敏行氏を迎えて
【詳細はコチラ】→http://machibacollege.blog.fc2.com/blog-entry-14.html
月村先生のお話、まだまだ続きます。
情報社会下で「思想」を考える(4)です。
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情報社会下で「思想」を考える(1)
情報社会下で「思想」を考える(2)
情報社会下で「思想」を考える(3)
(4)では、現在の情報社会に達した、貨幣経済社会について、
またその根本にある「貨幣」について書かれています。
貨幣の存在本質とは、単位であること、そして、数えられること。
その貨幣の本質に人々が同化し、誰もが平等に一人、数えられる数量となり、
全体の生産に平等に寄与する社会、それが貨幣経済社会であるということです。
しかし、全体への平等な寄与というのはうまくいっていない。
貨幣社会としての格差が生じている。
さらに貨幣は国家を超えて、国際関係間にも格差を生じさせている。
そこに、情報社会として、個人が個人のコピー交換しかない関係を生きていたら、
貨幣社会から生じる世界的な影響の波をかぶってしまう。
その影響のひとつとして、個人が単位となっていく現在において、
家族制度が解体し、大家族制度から核家族、
さらには、現在は核抜きの解体家族=浮遊家族、漂流家族と言えるような現状がある。
この現状をはっきりと認識した上で、私たちは考えていかねばならない。
それぞれが、自分が自分であるというしっかした思いを生きねばならない。
それが「考える」ということ、「思想」するということ。
以下に、全文を載せていますので、
ぜひ読んでみてください。(中尾)
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講演を紹介するコピーに「混迷を生き抜く知恵」なんて言葉があってあわてました。この情報社会は貨幣経済社会が一つの頂点に達して出現したので、そこでは「生き抜く」なんて言葉や考え方は必要ではないのです。「生き抜く」は上から目線と言うか、権力者というか、指導者とかが掛け声として言うだけの言葉になってしまいました。電通の24歳の女子が自殺したでしょう。「過労死」みたいに言われてしまいそうですが、この人は「生き抜こう」としたんで、こういう結果になってしまったのではないでしょうか。
情報社会までに達した、この貨幣経済社会下ではっきりしたことがあります。それは貨幣を機能─関係概念だけで考えるだけでなく、実体─存在概念で分かるようになったことです。貨幣の機能─関係概念は交換、流通、蓄蔵などです。この機能─働きがあるから経済生活社会が円滑に動いていく。そして、この機能が成立するためには貨幣が円やドルなどの単位制にあること、そして数で数えられる数量制にあること──これが貨幣の存在本質──存在概念だということです。即ち、単位存在性、数量的存在性で始めて貨幣の働き──機能が円滑に発揮されていくということが分かってみると、この社会の人間も遂に同化、適応して貨幣の存在と機能に重なったということがはっきりします。
近代は個人の権利と自由を保証する民主制度で始まったんですが、それがそもそも貨幣の単位存在性に同化、適応してそうなったまでだったんです。その勢いは遂にマス・ネット社会となって単位としての個人は全てが数として存在するということになってしまった。女性も個人である、子供もそうだ、障害者もそうだ、ゲイやレズビアン即ちL・G・B・Tもそうだ──すべて権利と自由を生きているんだ、ということになりましたが、それは皆、数として社会を構成している意味なのです。誰だって数として消費に寄与する、流通に寄与する、生産はオートメーションに任せて、しかしその生産の完成に寄与する。さらにこういう生産流通社会のこの全体がうまく運んでいくように寄与する──これが政治家で、選挙で現れる議員たちです。皆、数として平等に存在するだけです。要するに、赤ん坊も子供たちも含めて数として平等に存在するだけで、全体に寄与しているという社会が成立したんです。
しかし、実際というか現実をみれば、この全体への平等な寄与というのがうまく実現してないでしょう。
貨幣には一万円札から一円アルミ貨幣まである。交換、流通の便利のためです。それは貨幣が数量として存在しているからで、貨幣経済には数量的便利性ということがどうしてもつきまといます。この便利性をどこまで自分自身のために役立たせるか、利用できるかということで必然的に大企業、小企業の区別が生じてしまいます。個人にもそういう数量的便利性をマネージメントとしてうまくこなせるかどうかで区別が生じます。貨幣社会としての格差がどうしても生じる。大企業と小企業、大富豪と貧乏人、貨幣社会をうまく乗り切れる人とそうでない人…ということで、格差、差別が生じる。しかし、そこは法律をつくって貨幣の格差が片寄らないようにするのですが、それはある程度までのことです。
数量的便利性は各国の円とかドルとかの単位存在性を為替レートで交換して、国境を超えてしまうんです。だから、貨幣自体が国際的存在性でもあるんです。そこで国家が貿易立国で富裕国家だったり貧乏国家だったりする。
これは国家の国際関係で決まります。アメリカとソ連が張り合って冷戦を続けているときは日本は貿易立国で大いに富裕になった。GDPはアメリカに次いで二位だったし個人単位では一位にになった時もあったんです。でも、ソ連がポシャって、ヨーロッパ連合が出来て、中国が台頭してさらにインドも力をつけという中で国際関係が変わっていく。ブラジル、ロシア、インド、中国が、いわゆるブリックスと呼ばれ、先進国に迫ってくる。そして、今はイスラム教国としてのアラブ諸国において、いわゆるIS(イスラミック・ステート)によるテロ戦争がいつ終わるともしれない状況に入ってしまった…。これは、いつどんなリスクが生じるか分からない時代に入ってしまったと言っても同じです。そこで銀行でも生産企業でも合併につぐ合併で企業規模を大きくしようとする。リスクでつぶれるのを防ぐためにはそれしかない、というわけです。世界がこういう風になるのは、むろん、貨幣経済社会がそれに堪えられているからです。為替レートの交換性がそのまま貨幣の国際的流通性を保証し、さらに強く活性化している…。
こういうことのなかで、電波によるグローバル化のネット情報社会が成立しているんです。個人がネットによるコピー交換だけでなく、自分が自分であるというしっかりした思いを生きねばならないのは、こういう国際関係の波をかぶってしまうからでもあるんです。そこで何が生じてるいるかと言うと、一つだけ言いましょう。
それは、家族制度もまったく変わってしまったということ。今までは核家族だった。父親と母親が核でその周りに子供がいて、父親や母親の考え方や知恵や経験というものは子供が成長して親になるときのノウ・ハウとして受け継がれたんです。しかし、今は子供は保育所で育てるんですから核家族が成立しません。今、現れているのは核抜きの解体家族です。
大家族制、核家族制とたどって今は核抜きの解体家族人間に到達してしまいました。これはどういうことかと言うと、まずヨーロッパの一人の哲学者が言ったことを参考にして考えてみます。この哲学者は核家族は社会のなかに一つの場所を占めて、まずその場所として成立すると説いたのです。だから、家族関係は社会的な人間関係とはまったく別です。結婚が核家族の始まりで、今まで見ず知らずで、考えも育ちもまったく違った男女が夫婦になります。本当に不思議なことで、結婚してからこの結びつきを考えればお互いに感動以外の何ものでもない、というのです。人生の感動はここで知ることになるとも言います。ましてや子が生まれれば、父、母が出現するわけですから親子の関係は自然そのもので、社会には属さず夫婦の関係以上に感動的なものだとも言います。成程、ここで夫で父、妻で母という一身で二つの対の関係を生きることになる家族の本質がはっきりするのです。感動はこのことと別ではありません。子にしても次の子が生まれれば子は兄や姉となります。すると、子でありながら兄(姉)だという、やはり一身で二つの対の関係を生きることになります。二番目は子でありながら弟(妹)ですね。一身でこういう二つの対の関係を生きるのが家族の本質で、父母から生まれるという自然関係としてそうなるのですから社会関係とはまったく別です。伯父、伯母、叔父、叔母、祖父、祖母まで、考えれば、一身で幾つもの対の関係を生きることになるでしょう。家族のお互いがそうなのです。これは社会のなかに社会とは別な一つの場所として家族が成立することをうまく説明したと思います。ヨーロッパの学者ですから、ギリシャ語を使ってトポス(場所)として家族と言っています。
しかし、ネット社会がグローバルに成立し、貨幣経済社会に人間が一個の数として寄与するという現代ではトポスとしての家族は不可能です。社会そのものが子の生育を引き受けて核抜きの解体家族が成立することになりました。これは浮遊家族、漂流家族と言えばよいのか──まぁ、僕にはよく分かりません。このことは皆さんの方がよく実践しているでしょう。皆さんが考えねばならないことです。
これが「生き抜く」ことなんか出来ない現在なのです。日々は消費や流通への寄与としてただ生きるしかないのです。そこでせめて自分のことを考える、日々は何とかやり過ごして「考える」。映像社会でもありますから映像だけは世界中のことを映しだす。そのなかで、自分で自分のことを考える、それから世界を考えれば、「国家」と「宗教」が「考える」べき最大の課題だとなるだろうと思います。この二つは越えなくてはならないのははっきりしているんです。とにかくこれで戦争が始まっちゃうんですから…。
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これからの社会や社会課題、生き方について関心のある方にぜひ来ていただきたいと思っています。
ぜひご参加ください!
●11月13日(日)14時45分~17時00分
~まちばの哲学トークライブ~
「混迷の現代社会を考え生き抜く知恵」月村敏行氏を迎えて
【詳細はコチラ】→http://machibacollege.blog.fc2.com/blog-entry-14.html
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